戦時下の特殊な「空気の支配」の中で、
大学の職を追われ、著書も発売禁止の処分を受けた津田左右吉(そうきち)博士。占領下に、GHQの指示で皇室典範から「元号」の規定が削除されるという、新しい「空気の支配」のもと、知識人達の間で元号廃止論(=西暦公式採用論)が唱えられるようになった時には、堂々と元号“擁護”論を発表された(『心』昭和25年7月号)。その一部を紹介する。「新しい憲法におきましては、天皇は日本国の象徴である、或(あるい)は国民統合の象徴である、ということになっております。天皇は旧憲法の如(ごと)く統治権は持っていられないけれども、国家の象徴であり、国民統合の象徴であられるわけであります。天皇の位(くらい)に在(あ)られるのは国家または国民統合の象徴としてである。こう考えますと、天皇の御一代に元号という1つの名称をつけることは、やはり国家または国民統合の象徴としての意義を元号に持たせることになります。主権在民の国家、主権をもっている国民、その国家と国民の統合の象徴としての天皇の在位を示す元号は、それが即(すなわ)ち国家を象徴するもの国民の統合を象徴するものなのであります。ここに民主政治の精神をもっている元号の意義がある、というべきであります」「日本人は世界人としてはたらかねばならぬ、世界の文化の発達に参与し、世界の平和、世界の繁栄、に貢献しなければならぬ、ということには、勿論(もちろん)、異存はない。しかし今日(こんにち)の世界に於(お)いて国家は現に存在しています。それが存在する以上、国民としてのはたらきが無くてはなりません。偏狭な国家本位の思想、自国中心の態度がよくないことは、申すまでもありませんが、国家の存在を否定することはできません。国民的結合の存在を否定することはできません。現在の状態がそうであるのみならず、もし未来に世界政府というようなものが成り立つとしましても、国家の機能のすべてをそれにもたせることは、事実、できないことであります」「世界と日本を対立的関係にあるものと見て、世界人としての生活は日本人としての生活を否定するもののように思うのは、まちがいでありましょう。…西暦によし世界的意義があるとするにせよ、それを公式に採用し、そうすることによって、日本の国家の象徴、国民統合の象徴、である元号による年の数え方を廃止しよう、という考(かんがえ)は、意味の無いものといわねばなりません。これは西暦が世界的意義があるとしてのことでありますが、その世界的意義というのは、(イスラム暦など異なる紀年法を使用する地域もある等―引用者)制限せられた意味でのことでありますから、それを公式に採用しなければならぬ理由は、その点からも弱められます」「今日は国家とか皇室とかいうことばを用いることが憚(はばか)られ、もしそれを用いる場合には、それをよくない意味にとって、非難したり軽侮(けいぶ)したりするのが知識人のとるべき態度のように思われているらしく見えます。国家ということをいえば国家至上主義、自国本位主義、または軍国主義を主張するもののように考えられ、皇室ということをいえば民主政治に反対するもののように感ぜられる、という理由があるかも知れませんが、こう考えられ、こう感ぜられるということが、実はまちがいであります。戦時中に宣伝せられたことを非難する気分がそれに含まれているかと思いますが、実はその宣伝をそのままうけついだものであります。今日は、こういうまちがいをなおして、正しい国家の観念、正しい皇室観、をうちたてねばならなぬ時であるのに、そういうことに力を尽くそうとしないところに、今日の知識人の多くを支配している流行の力があります」「戦争によって明らかにせられた日本人の短所や欠点を指摘してそれを改めようとするところから、日本の過去を何か醜悪なもののように思い、そのすべてを破壊しようとする態度が、やはり知識人の間に流行しているようであります。この態度はまた日本人を世界の劣等民族であるかの如く考えて、何ごともヨーロッパやアメリカのまねをしなければならぬように思うことと、つながりがあります。いわゆる西暦を用いて元号をやめよ、というのは、こういう流行思想の1つの現われではありますまいか」「弊害のあることは変革しなければならず、変革するにためらってはなりません。…けれども変革する必要の無いことを変革しようとすれば、それは却(かえ)って弊害を生ずる。少数の人々のひとりよがりの考から、或は流行の勢(いきおい)に乗じて、または自分たちが世を動かす大きな力をもっているが如く思って、必要の無い変革を行おうとすれば、それに対する反抗または反動が起(おこ)る、そうしてそれは必要な変革を妨げる力となるものであります。…特に西暦の公式採用元号の廃止というようなことは、風俗や習慣を改めるのとは違って、国家の権力によらねばならぬのでありますから、それを実行しようとするには、国民全体がその必要を感じ、なめらかにそれを受け入れるようでなければ、権力の強制に対する不満または反抗が起るべきことを考えねばなりません。もし国民の多数がそれを欲しない場合に、権力によってそれを行おうとするようなことがあるならば、それは民主政治の精神に背くことなのであります。そうして今日に於いては、国民の多数がそれを欲しないことは、事実として認めねばなりますまい」―津田博士が戦時中、厳しい弾圧に苦しんでいた時には、時流に乗って“偏狭な国家至上主義”を唱えていた連中が、占領当局の意向に迎合して、いち早く元号廃止の旗振り役を演じたのではないか。「戦時中に宣伝せられたことを非難する気分がそれに含まれているかと思われますが、実はその宣伝をそのままうけついだものであります」というのは、鋭い指摘だ。この時、占領下の新しい「空気の支配」に迎合して元号廃止論を唱えた知識人達の“流れ”が、
今も影響を残していると見なければならない。